yamada-isak's thinking

できるだけ自分自身できちんと考えたことを書きたい。できるだけ、ね。京都から日本を、世界を考えます。

展覧会レヴュー:植松永次展「兎のみた空」

展覧会タイトル:植松永次展「兎のみた空」
webサイト:
http://gallery.kcua.ac.jp
http://gallery.kcua.ac.jp/exhibitions/20160611_id=8357#ja
会場名:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(アクア)
所在地:京都市中京区御池通堀川東入る北側
期間:2016年6月11日(土)~7月31日(日)
時間:11時~19時


「子供の頃に遊んだ土の感触は、今も変わらず指先にある。私の仕事は40数年前、土の表情を見ることから始まった。」
「陶芸家の人から見たら、“何してるんや”となるし、現代アートをやってる人から見たら“陶芸やろ”となる。見に来た人も“何してんの?”という感じ。いまだに自分でも陶芸家ともアーティストとも思っていないですね。」

本展webページ「展覧会について」に引用されている植松永次の言葉だ。

それは確かに、陶芸ではない。
しかしそれは、確かに人の手と目と意識が作り出した作物(さくぶつ)だ。

一般的な「陶芸」のイメージ、または定義。
土に形を与え、焼き固めて、永続性を与えること。そのために、適した土を選び、土を捏ねて滑らかに均質化する。そこに土とは本来、関係のない作者の意図による形態を与える。

本展には、30点の作品があったが、その内の3点を除いて、他のすべてが2016年の作である。そしてそれ以前の作である3点は、上記の「陶芸」の範疇にほぼ収まる。対して2016年の作は上記の陶芸の定義に、収まらない。

まず、以前の作の3点から。
「雨水(1996)」。轆轤で引かれた黒褐色の大皿に、水が満たされている。つまり「水たまり」。まんまるのきれいな水たまり。
「挨拶(1999)」「残された穴(1999)」。いずれも、灰色の板で無造作に組み立てられた箱状の形態が、ぐずぐずと崩れて無秩序へと落ちて行く途中で、固まってしまった。

これらに対して、2016年の作は、明らかに、突き抜けている。
いくつか、典型的なものを紹介しよう。

「始めの白」「空高く」「大地」「星」「円になる時」「地表」「地表Ⅱ」
いずれも、角の丸い長方形に整形され、表面がむくったように反った薄い板なのだが、その表面のテクスチャにそれぞれ異なる表情、色、文様がある。形態を与えている意志はある。しかし表面はその意志から脱しようとしている。

「涸れ井戸」「静止」「合う」「逢う」
四角く(立方体や直方体に)荒く整形された土の塊は、まだ十分に均質ではなく、火の熱によって歪み、割れる。その「割れ」の表情に、人の意志を介さない形がある。

「森でみつけた土の形」「虹」
様々な表情を持った土の塊は、すでに十分均質に捏ねられているが、形は無造作にしか与えられていない土のモノクロームの色と質感。あるいは、無造作に棒状の形を与えられた多数の土棒の色。

「時の重なり」「堤」「森」
かなり大きな塊として掘り起こされた土。自然に堆積してできたであろう地層。人為的に、しかし意図的でなく作られた構造。そして木や草の根が絡み合い、それが熱でガス化してできた無数の空洞の迷路。土の中に閉じ込められていた形を表出し、固定する。

「収穫」「原始」
様々な、無秩序な形の土くれ。土をただ焼いただけのもの。
しかし、待てよ。
土に、形は、あるのだろうか?土のかたちって、何なんだろうか?

植松永次は、ここまで来てしまったのだ。
土には本来、形はないから、その土に、人の意志によって形を与えて、永続化させる。
それが、陶芸だった。
しかし、植松永次がたどり着いたのは「土が持つ形」の発見と永続化だ。

植松永次が、土を掘り起こし、その塊を、ホロホロほぐしたり、ハタハタたたいたりしながら、土の中に隠されている、しかし確かに土が持っている、あやうくもろい「かたち」を取り出す様が、目に浮かぶ。「なかなか、ええかたちが、でてきよった」などと笑っている。たぶん。

そして、そんな植松永次にとっての遊び場と、土と遊ぶ楽しい時間がある。そこには、まだ(もしくは、もう)、土のかたちすら、ない。

「遊園地」
床に、土が敷き詰められている。凹んだ砂場ではなく、盛り上がった土の「遊園地」。開墾した森の土か、収穫を終えた畑の土か?黒褐色の土は均一ではなく、土くれや草の根が混じっている。これが植松永次の「遊園地」なのだ。こんな土の広がりの中から、植松永次は「つちのかたち」を探し、見つけ、見つけるたびに笑うのだろう。
「遊土」
土が遊んでいるという。泥水を、バッサーと壁に投げつける。土と水が一緒になって、土は形を失うが、動き、飛び散り、軌跡を描く。運動する土、自由な土、楽しい土の時間。

確かに、これは陶芸ではない。
しかし、植松永次が取り出す(作り出す、とは言いきれない)土の「かたち」は、植松永次の手と目と意志がなければ、僕達の前に姿を表さなかったこともまた、確かなことだ。
うさぎは、穴から、空を見ている。しかし、うさぎには、土の形は見えない。うさぎにとって、土は、その前足と鼻先で掘り進むときに感じる手応えとその変化でしかない。
植松永次は、うさぎのように、穴を掘り、土にもぐることはできない。しかし、私たちは植松永次の手と目と意識を通して、土のかたちを見ることができる。ありがとう。