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yamada-isak's thinking

できるだけ自分自身できちんと考えたことを書きたい。できるだけ、ね。京都から日本を、世界を考えます。

まず隗より始めよ/私たちだけじゃない...という理性の貧困

順序が逆になってしまったが、2013年5月13日の橋下徹氏の発言から、以下の部分を問題としてとりあげ、考える。

2.日本国軍だけじゃなく、いろんな軍で慰安婦制度ってのを活用してたわけです。

多くの批判が問題視しているように、この発言は

第一文:「私たちは、良くないことを、しました」
第二文:「でも、その良くないことは、他の人たちも、していました」

という組み合わせで語られた場合、逃れようもなく、第二文が第一文の文意を「弱める」方向に働く意味作用を持つ。これは文章法または修辞法から言って紛れもない事実だ。

 
つまり、第一文の意味内容について、これを強く誠実に語ろうとする意志を持つのであれば、第一文に続けて第二文を組み合わせることは間違いである。言い換えれば、第二文を第一文のすぐ後に付け加え、しかもこれを何度も繰り返している、ということは、第一文の文意を弱めたいと言う強力な意志(もしくは無意識的抑圧)を彼が持っていることの証明である。

これだけでも十分に非難されるに値するだろう。その非難と言うのは決して彼が「間違ったこと」を言った、と言う点にあるのではなく、自らの発言の重みを、自ら弱めるような文を構成することによって、自信の意志の薄弱さを示したところにある。

しかし、これも「どうでもよい」ことかも知れない。所詮これは彼自身の個人的な資質と公人としての資格に関わることであり、その意味では、彼にかわる、より適切な人材を選び直せば足りる。

より大きな問題は、この発言が「個人」についてではなく、日本および他国の「国家」と「軍」の行為および性質について述べられたものであり、特に日本と旧日本軍、および現在の日本軍(=自衛隊)を潜在的な主語として語られることによって、多くの人々の名誉が傷つけられた所にこそある。

「国家は理性の最高の形態である」とは、ヘーゲルの言葉である。その真偽はともかく、民主主義を原則として他国と対等な関係で多数の国民国家が並立する現在のこの世界において、少なくともこの世界をより良い方向へと進めることをその目的として掲げる国家であるならば、必ず「理性的」であろうとする動機と行為原則を持つはずである。その理性は言い換えれば「倫理」と言っても良い。

「他者を自らの目的のための手段として扱うなかれ」とは、カントの言葉である。倫理とは、こういうことだ。「私が成し遂げたい目的があり、そのために邪魔であったり非協力的である他者があったとしても、これに強制して自らの欲望を満たしてはならない」ということだ。少なくとも現在の国際関係において、また法治国家の統治の原則の中では、このことは共通了解であるはずだ。

過ちや罪は、常に起こる可能性がある。それは否定できない。しかし、過去の過ちが二度と繰り返されることがないように、万全の策を講じること。それが過去(歴史)に対する応答であり、未来に対する責任である。その責任は、たとえ他者(他国)がこの規範に基づいた行動を十分に行っていない場合でも、私に対しては十全の行為を要求する。つまり、他者の過誤や怠慢は、私の行為の免責理由には決してならない。もし、このことが腹の底から判っていたならば、上記の第一文に第二文を付け加えるような発言は、決して起こらないし、繰り返されることは決してないはずだ。

では、今、私たちはどのように語り、行為するべきであろうか?もし第二次世界大戦中の旧日本軍による慰安婦の利用や使役の事実を認め、これを「恥ずべき行為」と認めるのであれば、以下のようになるだろう。

第1項:私たちが過去に行ったこの行為は、誤っていたことを認める。
第2項:私たちは、同種の事態が決して起こらないように、しかじかの策を講じた。
第3項:私たちは、この策がより効果を挙げるように、継続して取り組んで来た。
第4項:その結果、私たちはこの策が効果的であり、副次的な害も少ないと認める。
第5項:ついては、同様の策を、同じ問題を抱える他国でも活用することを提案する。

再来年、2015年には戦後70年を迎えようとしている。しかし私たちはようやく「第1項」を共通了解とするところまでたどり着いたに過ぎない。もしかするとこれもクリアできていないのかもしれない。

道のりは、まだまだ遠いのである。