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yamada-isak's thinking

できるだけ自分自身できちんと考えたことを書きたい。できるだけ、ね。京都から日本を、世界を考えます。

展覧会レヴュー:京都市美術館コレクション展「きらめきを伝える 京都・美の系譜」

展覧会タイトル:京都市美術館コレクション展「きらめきを伝える 京都・美の系譜」
webサイト:
http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/kmma/index.html
http://www2.city.kyoto.lg.jp/bunshi/kmma/exhibition/2016_4_fiscal_BeautyinKyoto.html
会場名:京都市美術館
所在地:京都市左京区岡崎公園
期間:2016年7月5日(火)~8月21日(日)
時間:9時~17時

以下、レビュー本文--

京都市美術館は、昭和天皇の即位を記念して、設計競技を経て昭和8年(1933)に竣工、開設された。その経緯やその後の経過、特に戦後の占領軍による接収などについては、昨春開催されたPARASOPHIA2015での展示で紹介されたので、ご覧になった方も多いだろう。
その京都市美術館は本年(2016)末から改築工事に入り、工事は平成31年(2019)後半まで続くことが予定されている。つまりその間、京都市美術館は休館となる。
一方、京都市美術館京都市と京都の文化に関わる作品を積極的に収集収蔵し、その収蔵品の展覧をコレクション展などとして継続してきた。その収蔵品展覧も本展覧会を区切りに、しばらく休止することとなる。つまり京都市美術館が所蔵する「京都美術」の名品を、今回限り、しばらく見ることができなくなる。
まず、その意味で、本展覧会は見逃したくない、と思い、足を運んだ。

京都市美術館の改修事業についてはすでに方針設定と基本設計が完了し、その概要も公表されている。それによると、地下階が新設され、この地下階が主入口となること、また現代作品を展覧する新館が現本館の北東に新築されるとのことである。
しかし、私には釈然としないものがある。
京都市美術館の最も重要な使命とは何か?京都国立博物館、国立京都近代美術館、京都文化博物館などとの役割の相違と分担はどう位置づけられるのか?具体的には、本館主要部分は改築後、どのように活用されるのか?こうした点について、改修事業資料には十分な記述がない。
はっきり書こう。京都市美術館はモネやルノワールやダリの作品をわざわざ借り受けて展覧する場所ではないだろう。京都市美術館には、こんなにも素晴らしい、世界に誇るべきコレクションがある。それは京都が愛し、育み、伝えて来た「美の精髄」なのだ。京都市美術館の役割は、近代以降の、京都が生んだ名品を収集し、常時、可能な限り体系的に展覧すること。それ以外にはない(近代以降に限定するのは、それ以前の文化財については京都国立博物館の役割と考えるためである)。

さて、今回の展覧会には約100点の名品が展示されている。その中から、私が(独断と偏見に満ちて)常設展示すべき(つまり京都における「モナリサ」「サンヴィクトワール」「ひまわり」「睡蓮」に比すべき)と思う作品について書きます。

今尾景年。その屏風が2双。
「蕉陰双鶏図(1891)」「老松群鳥図(1922)」
30年以上の隔たりを持つ作品にあらわれる、その一貫性。それは近世以前から京都の絵描きに伝えられてきた作法が、明治中期以降の近代化(西洋技術文明化)と西洋美術技法の輸入にも関わらず、今尾景年の骨肉に宿りつづけた証(あかし)だ。芭蕉と黒松。植物は徹底した様式化、象徴化によって背景化し、鶏や雀たちを生き生きと克明に描く。背景は完全に捨象する。京都が日本を代表して、近代化を超えて受け継ぐ「絵」がここにある。

竹内栖鳳「雨(1911)」
水墨の伝統の近代的昇華。後記するように、絵の伝統は主に「輪郭線」の表現とその推移に見出されるが、長谷川等伯与謝蕪村を経た水墨は、輪郭なしで、ものの実体を墨のタッチで表現する。そしてこの雨中の樹林を描く絵は、これ以外では描くことができない。まるでレンズに雨粒が付着し、蒸気で曇ったかのように、おぼろに霞む情景は、湿度の表現の極限だろう。

菊池契月「少女(1932)」
西洋の絵画は、その近代的自意識を得た時から「輪郭線」を放棄し、技法を油彩にほぼ集約してきた。何故なら、実在の視覚像には輪郭線は無く、色彩の面と面が重なり、前面が背面を凌駕し、切れ目のない色彩面の連続が世界像を構成していると認識できるからだ。しかし輪郭線を捨てた西洋絵画は、色彩面の優位の一方で、存在者が持つ「かたち」の確かさの表現力を失うことを余儀なくされた。
この絵は、その対極にある。少女を描く輪郭線は、迷い無く、限りなく確かに、少女のシルエットを、その表情を、衣服のなめらかなたゆたいを、現実にはありえない繊細さと鋭さで描き出す。その輪郭線と、それに区切り出された色面の微妙な色彩の差異が作り出すイメージは、限りなく軽やかで、確かで、かつ美しい。

秋野不矩「砂上(1936)」
砂浜に、日焼けした身体たちが、のびのびとくつろいでいる。上記の「少女」のような厳しさにも似た確かさ、と言うよりも、輪郭線その物が、なごやかに、のびやかに、くつろいでいる。砂の淡い褐色と、日焼けした肌の赤褐色を区切り、幸せな身体のかたちを描く輪郭線は、その明度と太さを自在に変化させながら、身体と砂、身体と熱い空気の境界線を、くねくねとうごめかせる。

竹内栖鳳「雄風(1940)」
二頭の虎を描き出す、自由で開かれた輪郭線。まったく写実的では無い。漫画的とさえ言ってよい。しかし、大きな猫に過ぎない虎の、やわらかくくねる身体の動きをイメージ化するのに、こんな表現以外に、何が可能なのか?と思わせるほどに、虎が動いている。うなっている。こちらへ歩み寄るかと思われる。動物が持っている「かたち」の不確かさと「存在」の確かさを、これほどまでに描き得るとは。

上村松園「晴日(1941)」
世界は光に満たされている。どこもかしこも、同じ明るさで、澄み渡っている。いつもの仕事である。庭に掛け渡した反物をピンと張る仕事。単調だけれど、繊細さを求められる仕事。しっかりと見開いた瞳。きちんとした着物の着こなし。毎日の仕事の情景が、一点の曇りもない確かさで描かれる。輪郭線は徹底して一定の明度と細さ。彼女と世界、彼女と着物、着物の部分と部分。世界のどの部分も等価であり、同じように美しい。

提案したい。
新たに生まれ変わる京都市美術館では、本館の主要部分を常設のコレクションギャラリーとしていただきたい。そして、上記の作品を含めて、京都の「絵」の伝統と革新、特に「輪郭線」の表現の多様性と(世界美術史的な)独自性、その変遷。さらにそれぞれの輪郭線表現の持つイメージ形成の効果と意味についての体系的な読み解きを、様式史や流派史ではないイメージ史として展示していただきたい。
それが、世界から京都を、日本を訪れる人々への、日本の美の伝統と歴史を知らせる最良の場になることを期待して