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yamada-isak's thinking

できるだけ自分自身できちんと考えたことを書きたい。できるだけ、ね。京都から日本を、世界を考えます。

「必要」という語を安易に使わないようにしよう。

橋下徹大阪市長の2013年5月13日の発言をめぐって、いまだに議論がかまびすしい。煎じ詰めれば、みなさんが問題にしているセンテンスは、以下の3本だろう。

  1. 慰安婦制度ってのは必要だということは誰だってわかるわけです。
  2. 日本国軍だけじゃなく、いろんな軍で慰安婦制度ってのを活用してたわけです。
  3. 普天間の司令官の方に、もっと風俗業活用して欲しいって言ったんです。

この3つのセンテンスとそこに含まれる語彙について、何度かに分けて考える。最初は1.「必要」という言葉について。この「必要」という言葉、私自身を振り返っても、必ずしも「必要」ではない事柄について、あまりにも軽々しく使って来たことに改めて気づく。

例えば、辞書にはこうある。

ひつ‐よう〔‐エウ〕【必要】

  • [名・形動]なくてはならないこと。どうしてもしなければならないこと。また、そのさま。「それほど急ぐ―はない」「―に迫られて買う」「生活に―な(の)品々」(goo辞書

 

極論をすれば、何の前提条件も無く、アプリオリに「必要」なものなんて、この世界に存在しない。この「世界」そのものでさえ、別に無くても構わないのだ。純粋な「必要」とは、言い換えれば「絶対にあり得ないこと」と同義なのだ。

通常、「必要」という時には、必ず「条件」がある。「...のために、必要」ということだ。つまり「必要」とされることには、その「目的」がある、ということだ。

橋下氏の発言の場合には「軍の規律を維持するために」というのがその目的に当たる。では規律の目的は?それはたとえば「効果的な作戦行動を効率的にリスク少なく遂行するため」であり、さらにその目的は「戦局を維持、好転させ、戦争に勝利するため」「支配地域を維持拡大し、戦略的・政治的・経済的優位を確保するため」「アジア太平洋地域における日本の宗主権/大東和共栄圏を確立するため」などと、ほぼ無限に遡行できる。遡行できるのだが、しかし、どこか有限の時点で「その目的って、正しいのか?」と疑問を持たざるを得ないところに行き着く場合が、往々にしてある。

上の場合「大東和共栄圏」に行き着いたところで、多くの異論が発生することが避けられない。それは一部の人々の利益に叶うかもしれないが、明らかに他の人々の利益や関心とは一致しないからだ。

だから私たちの先輩たちは、有限な位置にありながら、しかしだれも否定できない「ほぼ究極」の目的を見つけ出した。それがヒューマニズム(人道主義)」と「デモクラシー(民主主義)」であり、別の言い方をすれば「自由と平等に基づく人権」の概念だ。

この人道主義、民主主義、人権の概念を最も基本的でだれもが共有できる理念として承認し、それを最も根源的な参照点とする「目的論(必要の論理)」だけが、私たちには許されている。そういう社会を、少なくともこれまで西欧世界は目指して来た。いわばこれは市民革命期から現在までの「世界精神」としての理性そのものであると、私たちは承認しているはずだ。

日本が1945年まで行った軍事行動とそれに付随した「慰安婦」制度は、いくら遡行してもこの普遍的な理念には至らず、遡行の途中で「自分たちだけが利益を得ようとする論理/排他的論理/非普遍的論理」であることが明らかになる。つまりそれらの計画・行動とその結果は「世界精神」に適合していないのである。

もちろんそうしたことは日本だけが行って来たのではない。1960-70年代のインドシナにおけるフランスと合衆国、第二次湾岸戦争における合衆国、パレスチナにおけるイスラエル、アフガニスタンタリバン、シリアのアサド政権。すべて世界精神には一致しない独善的な行動であることは明らかだ。

私たちが第二次世界大戦(太平洋戦争)の敗北とその反省から学び、自らを律する決意ことを決意するとすれば、その究極の参照点はこの「人道・民主または人権」に基づく理念をおいて他にはない。この理念に遡行することができず、合致しない目的を前提条件としている「必要」は「必要」なのではない。それは単なる「欲望」に過ぎない。

人間は欲望する生き物であり、この社会は欲望する諸機械の接続と切断によって作動する大きな機械だろ喝破したのはドゥルーズ/ガタリ(アンチ・オイディプス)だが、それは欲望を欲望のままに垂れ流すことを肯定しはしない。世界機械が順調に作動し、局所的な破綻を回避しながら、永続し成長するとともに、より一層創造的に作動するよう、私たちは「良き部分機械」として常に自らの作動を調節し、他者の作動に肯定的に働きかけることが望まれているのだ。

こうした「人道・民主または人権」の理念は、私たちが持つ現在の「日本国憲法」にかなりの程度、正確かつ適切に記述されていると思う。しかしそれはまだ不完全だ。たとえば人道主義は究極の理念ではないことを私たちにはすでに知っている。エコロージーとサステナビリティーの概念だ。人間社会だけが政治経済的に良好に作動すれば良い訳ではなく、生物界や気象現象を含む「地球圏」全体が一個の機械として適切に作動し、それが可能な限り永続するよう配慮し行動することが、私たちには求められている。その概念と理念は、残念ながら私たちの憲法にはまだ、書き込まれていない。

さらに、地理的な版図を確定する国境を持ち、国民を登録し、外国人や外国からのモノや資金の流れを規制し、自国の社会・文化・伝統・歴史の「固有性」を保持し続けようとする「国民国家」や「民族自決」の理念も、現在の私たちが置かれている状況と予見しうる未来において妥当なものかどうかは、極めて疑わしい。

こうした事柄こそ、私たちの憲法を現代のみならず未来にも適合するものとするために、議論し確認しつつ、合意形成して行かなくてはならないものだと信じる。

私はあらためて、自分が究極の「目的」として何を置き、それがこの世界の中で、誰からも認められ尊敬されるものであるかどうかを、その都度確認しつつ、それに合致しない限り「必要」という言葉を安易に使わないように自戒したいと思う。