yamada-isak's thinking

できるだけ自分自身できちんと考えたことを書きたい。できるだけ、ね。京都から日本を、世界を考えます。

未来志向とは/一致点からの再出発/沖縄・慰安婦・外交から憲法・自衛隊へ

橋下徹大阪市長の2013年5月13日の発言に端を発して、慰安婦/風俗業と戦争/旧日本軍/米軍をからめた論戦がかまびすしい。橋下氏の発言はこれまでの「慰安婦はなかった」「慰安婦はあったが、強制ではなかった」「慰安婦が軍と政府が関与する強制だった」という対立に、新たに「慰安婦は必要だった」「慰安婦を利用したのは日本だけではない」「必要であるなら合法的サービス(風俗業)を利用すれば良い」というフェイズを追加した。

しかし、それだけだ。私には今回の論戦は、これまでの対立の内部における論点の新たな分節化/細分化に過ぎないと思う。これでは何も前進しない。私は真に「未来志向」の前進を望む。そのためには「対立点」ではなく「一致点」から再出発する他ない。

1.一致する二点/戦争の惨禍と慰安婦の実在

相互に対立する主張を、互いに理解を深め妥協点を見出すという姿勢なしに、互いに論難しあっているだけの議論に「出口」がないことは、明白である。対立点をぶつけあって議論することの意味は、その対立を越える(止揚する)、新たな一致のフェイズを見つけようと、互いに努力する時にだけ生まれる。現在まで数十年に渡って続けられ、繰り返されて来た論難の応酬には、この要件が決定的に欠けている。

では、どうすれば良いのだろうか?ひとつの提案を示したい。

昭和20年まで日本が関わったアジア太平洋地域での戦争と慰安婦の問題について、以下の点だけは、全ての当事者が(たとえ腹の底ではどう考え感じているかは別にして)公式に一致している。

(1)旧日本軍兵士は慰安婦と呼ばれるものを利用していた。

(2)旧日本軍は、日本国外で、直接戦闘に関与しない人々に損害と犠牲を強いた。

これ以外の論点についての「真相究明」と歴史への位置づけは、政治から切り離し、純粋に学術的な研究のテーマとすべきだ。そして、だれもが認めるこのふたつの「過ち」を、未来において繰り返さないことを確実にする。それが「未来志向」だ。

2.未来志向とは?/未来における再来の防止とその確実性への信頼

その他のこと(強制か否か?日本だけか否か?など)は、この際、どうでも良い。重要なことは、日本人と日本と言う国家が、上記の二点について「もう二度と、同様の事態を招くことがないように、強力かつ実効性のある措置を講じる」ことを宣言し、これを粛々と実行することである。

これまで日本と周辺各国の間では、議論のたびに何度も、互いに「未来志向の関係」を目指すことが提起され、声明文書にも何度もこの言葉が登場した。しかしその意味するところは不明瞭であるか、または双方が明白に異なる意味をこの「未来志向」と言う言葉に仮託してきた。この際、上記のように「未来志向」という言葉の定義を明確にすることからはじめなくてはならない。

その定義は、以下のように表現できるだろう。

過去についての理解の一致点を確認し、そこに関与者(甲:加害責任を負う者)の重大な過誤が認められた場合、甲は今後の未来時点において同様の過誤が起こることのないよう、強力かつ有効な防止措置を着実に講じることを約束する。また、その他の関与者(乙:被害を受けた者など)は甲が講じる再発防止策を検証評価し、これが十分に実効的であると認めた時点で甲との間に全面的な友好関係が樹立されたことを確認する。

3.私たちの行動の原則とは?

では、こうした「未来志向」の関係構築へと進むために、相対する国々の人々が「強力かつ実効性がある」と認める対応として、私たちは何をすれば良いのだろうか?私はまず、以下の原則を確認することからはじめるべきだと思う。

(1)これら災禍の原因は、日本が外国へ軍事的に侵攻したことにある

(2)日本は、破壊や殺傷でない方法によって、国際平和に貢献しなくてはならない。

(3)非暴力的手段による限り、日本は積極的に国際平和に貢献すべきである。

(4)国際平和の原則は、各地域の市民の合意形成と搾取の廃絶による。

(5)日本の関与によって平和が実現されたか否かは、各地域住民の意志が決定する。

つまり、今後日本はいかなる者であれ敵を破壊・殺傷する火力を持って海外へ進出してはならず(必要な場合の純粋に護身的実力は除く)、軍事力以外の手段によって平和の維持・構築に積極的に関与すべきであるが、日本の関与が平和の構築に寄与したかどうかの判断は、日本ではなく、平和を構築すべき対象地域の市民が判定する、ということだ。

4.具体的に何をすべきか?

まず憲法の改正だ。上記の原則を、一切の誤解を排除し、一切の解釈の曖昧性を排除する努力を惜しまず条文に盛り込む新たな「憲法」を制定する。

次に「自衛隊」の抜本的な改変だ。もはや自衛隊に戦車もミサイルも必要はない。自衛隊の任務は、平和を脅かされている地域の人々に必要なリソースを提供することに限定される。それは水・食料・エネルギーであり、とりわけ「情報」が重要である。自衛隊は平和構築のための「補給軍」と「情報軍」、およびこれらの活動を支援する「支援軍」からなることになる。付言すれば、こうした機能を持つ自衛隊には「陸・海・空」の区分は無意味である。必要に応じた編成で地球上のあらゆる空間を有機的に制御し目的を達成するタスクフォースでなければならない。

このような活動では、これまでの「軍事力」ではなく、従来一般には「産業」に分類されて来た「生産的」機能の配備がとりわけ重要である。

物資を届ける機能は「運送業」などがそのノウハウを持つ。破壊され、機能不全のインフラの復旧や整備には「建設業」の活躍が必要だ。そして、世界のどの地域であっても地域住民が情報を摂取・発信・共有できるためには「情報・通信産業」によるインフラ確保、技術提供および手段普及が欠かせない。

こうした活動とその構成・配置は、言うまでもないが、国外での平和維持構築活動だけでなく、国内における災害・事故への救援・復旧・復興活動、また日本が侵略された場合の市民による抵抗運動への支援にも欠かすことのできない機能である。

5.日本が侵略された場合は、どうするのか?

では逆に、日本の領土が侵略された場合には、何ができるのか?敵を撃破する有効な火力を持たない日本は、無力に蹂躙されるのではないか?私はその心配はないと、ほぼ確信している。

まず、日本が上記のような立場とそのための法制度や実効的な組織構成を持つようになれば、世界は注目せざるを得ない。そしてこのような国に対する侵略行為は疑問の余地無く国際社会の強い非難の対象となる。加えて、日本が持つことになる情報能力、特に多様なセンサーと強靭なネットワークを駆使する「監視能力」は、侵攻している事態をリアルタイムで世界に発信し、侵略者による疑問の余地のない不法行為の事実を白日のもとに晒すことになるだろう。

過去(特に日米安保改定等に即して)に日本の防衛政策や自衛隊について言われて来た「専守防衛」「ハリネズミ」と言った表現が、関係国から単なるレトリックと受け止められ、自衛隊の内実もまた、専守防衛をはみ出す攻撃的なものとなって来た経緯には、「防衛」についての定義とイメージがあまりにも「情報化、ハイテク化」以前の戦略論、軍事通念にとらわれて来たことが重要な要因としてある。

たとえば、朝鮮民主主義人民共和国政府が関与したとされる「拉致事案」についても、もし極めて高精度で網羅的な沿岸監視技術が導入されるならば、発生時点で犯罪として発見・摘発することが可能であったはずだ。

また、国境・海岸を突破され都市・地域を占拠され、私たち市民が徴発や強制、暴力を受けるような事態になっても、産業を含む市民による自発的分散ネットワークが機能する限り、そこで起こっている事態は海外へと伝わり、たちまち支援の輪が形成されるだろう。それこそが憲法前文が謳う「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」する、ということの意味に他ならない。

憲法の改正、自衛隊の改変、産業界の平和構築活動へのシステマチックな組込み、さらに市民ひとりひとりの日常の中での自立分散型ネットワークの形成とそのノードとしての役割の分担などを通じ、より完全な平和と民主主義を維持・実現または実践することを国家としての目的とすることによって、日本は真に「国際社会において、名誉ある地位を占め」ることになるのである。

私は、その日が来るまで、生きていたいと思う。

2013.05.15/山田章博 yamada.isak@gmail.com